撤退判断の重要性

倒産つながりで他愛(たわい)のない話を。

継続は力なり

「夢を諦めたらそこで終わり」という類の話はよく耳にします。

確かに「継続は力なり」ですよね、努力をし続けることで人は成長します。

「失敗は成功の母」ですし「天才は1%のひらめきと99%の努力」とも言われます。

「石の上にも三年」は私の好きな言葉の一つでもありますし。

ただし、成功に向けて努力をし続けることと、すでに勝敗が決しているのに負けを認めずにだらだらと先送りすることとは違う話なので注意が必要です。

近所にあった薬局の廃業

以前住んでいた最寄駅の近くに中規模の薬局がありました。
薬局といっても調剤薬局ではなく市販薬を扱うドラッグストアです。

それなりにお客さんが入っていたのに、あるとき、突然に閉店の案内が。

不便になるなぁ、と思っていると廃業から2ヵ月経たない間に全国チェーンのドラッグストアが近くで開店しました。

後から人づてに聞いたところによると、廃業したドラッグストアの経営はそれなりに順調だったようですが、近所にライバル店が開業するという話を聞いて経営者が廃業を決めたとのこと。

それなりにお客さんを抱えていましたが、調剤薬局に比べてドラッグストアは競争が激しく、商品を仕入れる力(バーゲニングパワー)に勝る全国チェーンに対抗するのは難しいと思われます。

それならば、ジリ貧になる前にさっさと廃業してしまおうと考えたのではないでしょうか。

経営者としては極めて正しい判断だと思います。

おそらく、彼(彼女)は、他の事業を起こしても上手く成功をさせるのではないでしょうか。

脱サラして始める事業

サラリーマンを辞めて念願の飲食店を開業するというのは、会社員の夢の一つかもしれません。

喫茶店だったりカフェバーだったり、あるいは年配の人だと蕎麦屋さんだったり。

でも、よく失敗をするんですよね。
廃業する店がとても多いのが現実です。

そもそも、自分がお客さんとして行く店を見て「ならば自分も」と考えるのでしょうが、実はそこには生存バイアスがあります。

つまり、競争を勝ち抜いて生き残ったお店だけから判断して、自分にもできると勘違いしてしまうんですね。
その裏側に屍(しかばね)が累々と横たわっていることは、普通、見えないですから。

いや、別に、失敗(廃業)がダメだと言っているわけではありません。
むしろ、何事にもチャレンジすることは素敵だと考えています。

冒頭にも申し上げたように「失敗は成功の母」なので。

撤退判断を誤ることが本当の失敗

たとえば、企業で新規事業を検討するとき、「撤退シナリオ」は「事業リスク」と並んで必須項目です。

確かに、「事業を始める前から撤退とは何事だ」と腰が引けていることを叱る向きもあるかもしれませんが、少しでも守るものがあれば、あらかじめ撤退シナリオも検討しておくのが無難だと思います。

でも、脱サラで起業した人の多くは、撤退について考えが及ばないのではないでしょうか。

そして、事業をしながら「あぁ、これ、ちゃっとヤバいかも」と思い始めても、人生を賭けて脱サラしたので意地やプライドが邪魔をして、結局は撤退判断を誤ってしまうことも多いのではないかと思います。

私が間接的に知っている会社員が、早期退職をして飲食店を開きました。

最初は同僚や仕事のつながりでお客さんが来て賑わうのですが、徐々に足が遠のいていきます。

何かエッジが立っていれば新規のお客さんが増えて好転するのですが、残念ながらそうはならず、ジリ貧の状態が続き、外野から見た限りでは傷口を広げるだけなので早く撤退したほうが賢明なように思いました。

しかし、自己資金が底をついて借金が増え、ヤバいところからもお金を借りて、奥様とも離婚になり…という寂しい結末となりました。

このケースの一番の失敗は、見栄やプライドが邪魔をして撤退判断を誤ったこと、ではないでしょうか。

失敗することは必ずしも悪いことではありませんが、再起不能になるまで拗(こじ)らせてしまっては駄目ですよね。

損失回避性とサンクコスト

上記の例に限らず、脱サラして始めた事業がジリ貧になったとき、撤退判断を誤る理由は必ずしも見栄やプライドだけとは限りません。

行動経済学のプロスペクト理論が明らかにしているように、人間とはもともと、自分が損失を出しているときはそれを取り戻そうと熱くなるようにプログラミングされています(損失回避性)。

だから、勝てない勝負であっても、負けを認めることができず、さらに傷口を広げてしまう結果になることが多々あるんですね。

子供の頃、親戚の大人から「博打というのは、その場で朽ちてしまうからバクチなんだ」と教わったことがありますますが、同じ話だと思います。

また、経済学・経営学では「サンクコスト(埋没費用)」という概念があります(「沈没した費用」と直訳したほうがイメージしやすいかもしれません)。

たとえば、何かの事業で1億円を投資して、これから先も単月黒字になる見込みがないにもかかわらず、「せっかく投資をした1億円が無駄になるので…」と事業を継続しようとする動きに対して「1億円はサンクコストだから撤退すべき」という感じで使われたりします(会議の状況にもよりますが「確かにそうだよな…」みたいに流れを変えるぐらいの言葉だったりします)。

平たく言うと、「死んだ子の年を数えるな」ということでしょうか。

日常生活の例でいうと、Wikipediaの例が分かりやすいかもしれません。

ある映画のチケットを1800円で購入しこのチケットを紛失してしまった場合に、再度チケットを購入してでも映画を観るべきか否か。

チケットを購入したということは、その映画を見ることに少なくとも代金1800円と同等以上の価値があると感じていたはずである。一方で紛失してしまったチケットの代金は前述の埋没費用にあたるものだから、2度目の選択においてはこれを判断材料に入れないことが合理的である。

ならば、再度1800円のチケットを購入してでも1800円以上の価値がある映画を観るのが経済学的には合理的な選択となる。しかし、人は「その映画に3600円分の価値があるか」という基準で考えてしまいがちである。

少し補足をすると、最初に払った1,800円はチケットを紛失してもう終わった話(サンクコスト)だから、そのことはさっさと忘れてサラの状態で「新しいチケットを買うかどうか」を判断するのが正しい、ということですね。

話は脱線しますが、先日たまたま観ていたTEDでハーバード大学のダニエル・ギルバート教授(心理学)が、上記のケースについて面白い解説を加えていました。上記のケースに即して話を少し変えると、財布に1,800円とチケットを持って家を出て映画館でチケットを紛失したことに気づいたら財布の中にある1,800円でチケットは買わない人が多い(ここまでは上記と同じ)。でも財布に3,600円を持って家を出て映画館で1,800円を紛失していたことに気づいたら財布に残った1,800円でチケットを買う。何が違うのか。チケットを紛失したときは(正しくない計算だが)3,600円でチケットを買ったと考え、そして、最初の(失くした)チケットは1,800円で買ったことを思い出し、両者(現在と過去)を比較して「損する取引はしたくない」と考えてチケットは買わないのだ、と。この部分だけ切り出すと脈絡がなくて少し分かりにくいのですが、行動経済学にも通じる面白い講義なので時間があればぜひ。

見切り千両

相場の世界にも、同じことを戒めた有名な格言があります。

見切り千両(みきりせんりょう)
相場の格言の一つで、「見切り千両、損切り万両」といった使われ方もする。含み損を抱えた株式などに対して、損失の少ないうちに見切りをつけることは千両の価値があり、損失を拡大させないために、ある程度の損を覚悟で売買することには万両の価値があるという例え。
(野村證券株式会社)

中国の偉大な思想家である孔子は「学びて思わざれば則ち罔(くら)し」と語っています。

つまり、知識として学んでも自分の頭で考えないと身につかないよ(愚かなことだ)、と。

なので、株式投資に関しても、本能的な誘惑(意地・プライド・損失回避性)を断ち切って、「サンクコスト」「見切り千両」を実践したいものです。