『ソロス』(マイケル・T・カウフマン著)

ジョージ・ソロスの伝記。著者のカウフマンは元ニューヨークタイムズの記者。ソロス本人を含めた計130人へのインタビューを元にソロスの半生を詳細に記述。

以下、個人的な備忘録です。

戦前

ソロスの父親のティヴァダール・シュワルツは1893年にウクライナの国境に近いハンガリーの農村に生まれる。両親は正統派ユダヤ教徒であるが本人の信仰心はそれほど篤くはなかった。利発であり兄弟の中で1人だけ大学教育を受ける。志願兵として第一次世界大戦に参加するが歴史に翻弄されて辛酸を舐める。

ソロスの母親のエルジェーベトはティヴァダールの父親の又従兄弟の娘。1902年生まれ。

次男のジョージ・ソロスは1930年8月12日生まれ。長男のポールは1926年生まれ。いずれも難産。

1944年3月19日にナチスドイツがハンガリーに侵攻して一家の生活は激変。ティヴァダールは一家の偽の身分証明書を手に入れ、一家バラバラになって隠れ家に潜んだ。1945年1月12日、ブダペストの街はドイツ軍を追い出したソ連軍によって支配される。

戦後/ロンドン

17歳のソロスはロンドンに渡る。名門のロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に入学したかったが英語で不合格になり仕方なく三流大学に入学する。その後、無事にLSEに入学。しかし貧乏で楽しい思い出はほとんど無い。

LSEでは哲学者カール・ポパーに師事する(と言っても学生時代の接点はあまり多くなく、ソロスが1982年に経済的に成功してオープンソサエティ財団の設立をポパーに連絡したとき、最初は「君(ソロス)のことをはっきりと思い出せない」という返事であった)。

LSEを卒業後、雑貨品の製造会社の社主の息子に気に入られて管理職として働き始める。その後、投資銀行で働くべくシティの大手企業を訪問するが、業界に親戚がいないハンガリー出身のユダヤ系で、かつ金融系に強い大学出身ではなかったソロスは就職先を見つけるのに苦労する。

結局、遠い親戚の眼科医のツテでハンガリー出身者が社長を務める中堅の証券会社に入社する。部署を転々とした後に裁定取引の部署に落ち着く。無断欠勤でクビ同然になるが、幸運にも、同僚の父親が社長を務めるニューヨークにある小さな証券会社に職を得る。

ニューヨーク

F.M.メイヤー社に就職したソロスは、次々に裁定取引のアイディアを出し、モルガンスタンレーやウォーバーグという大手証券会社と協力して大金を稼いでいく。

ソロスの両親は無事にハンガリー動乱から逃げ出すことができ1957年にニューヨーク到着。

ソロスは1959年にドイツ出身で米国に帰化したアナリーゼ・ヴィチャックと結婚(子どもを授かったあと暫くしてから離婚)。

全てを任されて記録的な成績を挙げていたソロスは、社長(F.M.メイヤー)に呼び出されて「シェル石油の売買ポジションは何故こうなってる?」と口を出されたのに立腹して同社を辞職。

ニューヨーク証券取引所のメンバー企業である投資銀行のワーサイム社に転職。外部ブローカーであるF.M.メイヤー社よりも格上。部長補佐として欧州株専門の「アナリスト」という肩書きを得る。

ドイツの有名企業の株式を多数保有しているドレスナー銀行に目をつけて大量に購入。大成功を収める。続いてアリアンツ保険でも大成功。欧州株の専門家は米国に3人しか居なかったので「盲目の国では片目でも王様」だった。

ジョン・メイナード・ケインズの「長期的にはすべてが死ぬものだ」(”In the long run we are all dead.”)と同じ考え方で、ソロスは唐突に市場に入り、唐突に抜け出す。企業に対する愛憎はなく、儲けさせてくれた株に愛着を持つこともなければ、損失を蒙った株に憎しみを持つこともなかった。

ソロスは兄から金を借りて自分の金も加えて、でスチュードベーカー社のA株(一定先までは議決権を行使できない制限付きの株式)を購入して普通株を空売りした。しかし天井知らずの値上がりでソロスは破滅の瀬戸際まで追い詰められた。

ソロスは1962年にワーサイム社の口座で東京海上火災の株を買ったがトラブルに巻き込まれた。結局、問題なく解決したが、途中で役員に梯子を外されたことを不満に感じて同社を退職した。

投資銀行のアンホールド&S.ブレイシュローダーに就職するが、1963年にケネディ大統領が外国証券の取引に課税する法案を提出し議会も通過。米国人が外国証券を保有すると利子所得に15%の追加課税となるのでヨーロッパ株式の人気は尻つぼみになった。

哲学

ソロスは1963年から哲学に没頭するが、長く推敲を重ねてきた『意識の重荷』の手直しに行き詰まり、1965年にケネディ大統領の利子平衡税税の終了期限が近づくとビジネスの現場に復帰する。

実際の市場の中で、彼は哲学的に模索していた再帰性理論と株価動向との間に関連性に気付き始めた。

彼(ソロス)は次のような仮説を立てていた。思考の一形態が別の形態に移るのは、それまで積み重ねてきた過ちの重圧を受け、批判的思考が働いて試練が加えられ、ついに伝統的な知恵、あるいは集団的先入観が崩れ去るときだ、と。ソロスはこれと同種のことが市場でも起こることに気がついた。この現象を事前に察知できれば、大儲けができるのだ。

まず第一の変数は、「潜在的なトレンド」だ。ソロスはこれを、株価の動向に影響を与え、あるいは動向の原因となるトレンドと規定する。投資家であれば、こうしたトレンドは見定めることができるだろうし、理解をすることもできるだろう。だがもし気づかなかったとしても、トレンドの機能は変わらない。第二の変数は、「支配的なバイアス」だ。これは、株価が上昇か下降かどちらかに向かえば、その存在が明らかになる。第三の変数は、「株価そのもの」だ。これはほかの二つの変数次第で決まってくるが、同時に、ほかの二つの変数にも作用する。この三変数のそれぞれは、ほかの二変数と流動的な緊張関係にあり、互いに影響を与え合って、互いの価値を常に変動させている。ある条件下では、この三つの要素が互いの流れを強め合い、最初は一方の方向へ、やがて逆の方向へと激しく動くことになる。これが「ブーム/バスト」の典型的なパターンで、この現象にいち早く気づいた者は、大きなチャンスをつかむというわけだ。

ジム・ロジャーズ

1968年2月23日に父親のティヴァダールは癌で死亡。この前後、ソロスはますます仕事に没頭していた。その頃、後の盟友であるジム・ロジャーズと出会う。

ソロスはジム・ロジャーズに会った時期のはっきりとした記憶がない。他方、ジム・ロジャーズはソロスについての一切の議論を避けている。インタビューにも応じていないし、1994年に出版された自伝でもソロスについて全く触れていない。

1968年にソロスは自分のパートナーとして12歳年下のロジャーズを選んだ。社内には、騒々しくて嫌な奴だと感じた者が多かった。ロジャーズは、アラバマ州デモポリス生まれの田舎者であったが、イェール大学を卒業してオックスフォード大学でも奨学生として学位を取り、ことさらに喧嘩っ早さを誇示する性格だった。

ソロスは米国リートで大成功を収めるが、同時に、アナリストとして顧客に提案をおこない、同時にファンドマネージャーとして売買をすることはSECが定めた投資家保護の精神に反するように思われた。そこで、1973年にアンホールド&S.ブレイシュローダーを円満退社して独立することになった。

クォンタム・ファンド

ソロスは独立してジム・ロジャーズと一緒にソロス・ファンド(後のクォンタム・ファンド)を立ち上げる。アンホールド&S.ブレイシュローダーで運営していたダブル・イーグル・ファンドの出資者にもソロス・ファンドに移行する選択肢が与えられ65%がソロス・ファンドを選んだ。

MBA出身の新たな銀行家が出現するのを見て銀行業界に投資したり、農作物の不作が報じられる前に肥料メーカー株に投資したり、第四次中東戦争でイスラエル軍が苦戦したのを見て「ソ連製兵器の性能が向上しているのでは?」と考えて米国の防衛産業に投資し、莫大な利益を得た。

ソロスが「引き金を引く」ときは鮮やかだった。イングランド銀行がポンド切下げに踏み切ると予想した部下のドラッケンミラーがソロスに報告し「20億ドルから30億ドルを賭けたい」と伝えると、その3倍以上に増額した。プラザ合意で日本円が切り上げられると予想して大量の日本円を空売りしていたが、8%上昇しても利益確定をせず逆に追加で更に日本円を売却した。この年、クォンタム・ファンドは年122.2%の利益を得た。

ソロスには経営能力が欠如していた。ソロスはクォンタム・ファンドにおける経営層の拡大をジム・ロジャーズに指示していたが、ジム・ロジャーズはソロスと2人だけの経営を望んだ。結局、クォンタム・ファンドの規模が拡大し両者の仕事量は増えた。結局、1980年に2人は袂を分かつことになった。

1981年にソロスは雑誌のインタビューに初めて答えた。この年、クォンタム・ファンドは年22%の損失を出した。しかし翌年、+57%の利益を出し、この年を含めて14年間連続増益という記録を作る。

1985年、英国のマーガレット・サッチャー首相が民営化政策に本気で旧国営企業の株価は不当に安いと考えていると分析し、ジャガーやブリティッシュ・テレコム株の購入で大きな利益を得た。米国の通信企業であるウェスタン・ユニオンはファックス技術の進化で打撃を受けると分析して空売りを実施し、莫大な利益を得た。

同じ年、1981年から始まるレーガノミックスはドル高と高金利が5年間続いていたが、財政赤字が増大し、ドル安政策に方向転換するとソロスは確信していた。円の空売りによって莫大な利益を得た(前述の通り)。

イングランド銀行を打ちのめした男

1992年、ソロスはポンド暴落で10億ドルを儲けた。その他、マルクやフランの先物取引も実施し、合計で20億ドルの利益を出した。

このニックネームでソロスの知名度は爆発的に上がり、彼が後半の人生を賭けてきたオープン・ソサエティ財団を筆頭とした慈善団体の後押しにもなった。

1994年から2000年までにソロスは各財団に計25億ドル以上を提供した。

ITバブル崩壊

2000年に米国のITバブル崩壊は崩壊した。ナスダックは40%の暴落だった。クォンタム・ファンドは21%の損失を出した。ドラッケンミラーがベリサイン株に投資することにソロスは反対したが後任者として仕切っていたドラッケンミラーが押し切った結果だった。
ライバルだったタイガーファンドは解散した。手堅いフバフェットも傷を負った。

ドラッケンミラーはクォンタム・ファンドを去り、新しい体制となった。

読後感

本書を読んで思ったのは、ジョージ・ソロスは生い立ちから20代前半までの人生を反映し、人付き合いの苦手な哲学者というイメージです。

ソロスは競争を尊重していた。ソロスの長男ロバートは言う。「たまには子どもに勝たせてやるのが普通だろう?でも、うちの父(ジョージ・ソロス)は、そんなことは決してしなかった。…子どもに勝ちを譲るなんてことは一度もなかったね」。

投資業と哲学の間を行きつ戻りつしながら大金を得て、自分の哲学思想を実現する財団を設立して積極的な慈善活動をおこなっています。

本書は2000年までしか記されていませんが、ダメージを負ったクォンタム・ファンドは復活を果たします。

(了)